*人物


○庄屋 平賀仙右衛門

 三代目の庄屋 平賀仙右衛門は、二代目仙右衛門の長男で、名はせん二、通称直吉と呼ばれていた。父の血を受けて豪気闊達にして、機智に富んでいたと言われている。
 弘化二年(1845)8月、父仙右衛門の死去により、三代目仙右衛門を襲名して庄屋を継承、明治五年、庄屋制度の廃止まで在職し、明治14年9月15日75才で他界した。その間、明治維新の騒然として世上に処して事なきを得た名為政者であった。
 公務多忙の中にあっても軽信の念篤く、安政年間、稲荷神社の昇格やそれにともなう社殿の造営等、東奔西走されて今日の基礎を確固たるものとし、村民の衆望を担われ、斎主としての任を全うされたことは後の世までの称賛の的になっている。
 慶応二年に起きた、浜島村と迫子村の鰡漁場紛争の解決や安政元年(1854)6月14年の大地震・大津波による墓地流失に際しては、出来得る限り遺骨の蒐集に努め、村民と共に新墓地を設定し、慰霊の為の地蔵尊を安置して、不慮の死などの霊を供養した。また、自宅を開放して、寺子屋教育を広め若い世代の啓蒙にも勤められた外にも、稲荷神社社殿の天井絵の揮毫者、絵師野村訥斎の墓碑建立の提唱者でもあり、その業績は襟を正しむるものである。
 明治4年(1871)、庄屋仙右衛門は、廃仏毀釈のため廃寺となった伊勢国山田町河崎の寺院(宝珠院)に安置されていた地蔵さん、正式名は「ほう羅院山地蔵大菩薩」を譲渡され、舟で大野浜へ陸掲げ。同年9月18日、地蔵菩薩をこの地へ安置して万霊の供養をした。


○大工棟梁 中村九造


 安政7年(1860)の稲荷神社造営の棟梁で同年3月27日・28日に行われた上棟式では斎主と棟礼にある。尾州名古屋之産的屋浦住(愛知県名古屋市の生まれで三重県磯部町的矢に在住)とも記されている。志摩には過ぎたる物と言われた青峰山正福寺の山門や国分寺の金堂などを手掛けた大内人の称号を持つ著名な宮大工で、それらの棟札に依れば、竹中和泉輔正敏(現・竹中工務店)の門下の棟梁(匠)として志摩地方の差配を任されていたと思われる。稲荷神社の造営については、九造が長となって全てを取り仕切って建立したものである。なお、中村九造は大内山秀工藤原治長居士と謚号されて、海を見下ろす的矢の日和山の墓地に静かに眠っている。


○絵師 野村訥斎

 野村訥斎は天保2年(1831)三重県南島町小方窯の生まれで幼少より絵を好んだ。16歳で江戸に出て大西椿年に師事したが同門との折り合いが悪く、志半はで帰郷した。家人の勧めで結婚し、一女をもうけたが数年後、妻女は不幸にも病床に伏した。訥斎は志摩、越賀の名医中西三進の治療を妻に受けさせる為、越賀の小川氏別宅に仮寓した付き添っていた。
その間、片田稲荷神社の格天井へ、訥斎はじめ、その弟子たちによって、見事な絵を奉納した。訥斎は、「浮鴎」の角印を用いたともあり、当時片田には、数人の弟子があったとされる。48枚の絵で作者が判っている分を列記する。

作  者 作品 作  者 作品
雪  窓 松  琴
禎  斉 賢人 桃  逸 水蓮
雪  操 牡丹 松  琴
雪  渓 四  学 時鳥
蘿  洞 宝  斉 牡丹・雀
松  写 百  鞭
考  重 紅葉・鳥 雪  画 牡丹・美女・紫陽花
蓬  雪 あやめ 村  雪 花鳥・白椿(安政6年の讃)
盧  香 梅に鶯 首若生 枯木
回  龍 布袋
玉琴女史 牡丹 金、陵、仙、学、有 馬 等

 村雪の描いた白椿には、安政6年(1859)の讃が認めてあるところをみると、新車新社殿竣工の一年前に当たるので、天井の板を予め用意し揮毫したのを、拝殿を張ったことになり、年月的にはきっちり一致している。
 越賀で療養していた妻女は手当ての甲斐もなく9年後に他界した。その後、訥斎は京に上って禁裡御用絵師「丸山応立の元に入門し、刻苦勉励、画業に専念した。数年後の文久元年(1861)皇女「和宮」御降嫁の際、師に代わって御袴に秋の七草を描いて差し上げたところ、禁裏出入りを許された。欣喜雀躍、この吉報を手にお世話になった方々に御礼をと帰郷の途次、元治元年(1864)正月、伊勢の田丸で発病して同年2月11日郷里小方窯で帰らぬ人となった。なお、稲荷の天井絵は昭和35年島町の文化財に指定され、その画業を讃えている。



篤信家 平賀稲次郎

 創祇者、半四郎の直系で平賀家を継いだ喜平の次男として当地に生まれ、稲荷の稲を戴いて稲次郎と名付けられた。成長の後、海軍に志願、常に家訓の「稲荷様の御心を奉じ誠心誠意、事に当たるべし」を信条に軍務に精励した。特に砲術かけては天才と言われ砲術学校の助教に選ばれて後進の指導に当たった。その中には提督になった人も数多くいたと云う。日清戦争では威海衛の戦に従軍して大いに活躍し戦後退役した。その後も常に「お稲荷さん」を篤く信仰し、名も稲荷丸とつけた貨物船で兄、仙助一家と共に家業の海運に従事していたところ、ある夜、夢枕に立った稲荷神から「近くロシヤとの戦いが始まり、召集ある」とのお告げがあり覚悟を決めていた。明治37年(1904)予めて覚悟の召集を受けて日露戦争にも参加し軍人としての本分をまっとうした。勝利の後、召集解除となって帰郷。以前と同様、家業に専念、家も栄えたという。
 話が前後するが、明治35年(1902)、英国皇帝エドワード7世の戴冠式典に同盟国の日本を代表して軍艦、浅間、高砂が参列した。そのとき、稲次郎は現役復帰の召集を受けて高砂乗組員として渡英し祝賀観艦式に参加と云う海軍軍人として栄誉に輝く破格の待遇を受けた。それも、これも「お稲荷さん」の御利益だと、今も村人の語り草になっている。


○亙師 岡出大吉


 立神の村中から西へ五件ほど隔った崎鼻に「よんぼ」と呼ぶ地先がある(正式な呼名は呼が崎)。ここは、神明と50mほどの海を挟んでいて、呼べば答える近距離のため、呼ぶが崎と付けられたという。「よんぼ」の地は英虞湾の浦伝いに、片田の大野浦にゆける所から、瓦を運ぶのにも地の利を得た場所である。「よんぼ」の自分の土地に窯を築き、工房・乾燥装置・井戸などの附帯設備を併設した。
 瓦のもとになる大切な粘土を一部瀬戸から買い入れるという心遣い様は、大吉の心意気を示すもので、これまでに扱ったことのない超大型の鬼瓦や、竜宮城のデザインなど自己の工夫による木型など、長い職人生活から得た手腕と知恵によって順調に捗る予定であった。ところが、目に見えぬ所に思わぬ陥穽があったり、窯の温度が上昇せず失敗につぐ失敗ということで、この道40年のキャリアを誇る大吉も、予想外の試練に見舞われる。
 その上、納期が迫ってくるのと、資金の欠乏というダブルパンチに見舞われる結果になって、このままでは神社の方へも、職人たちにも、大きく迷惑をかける事態になり兼ねず、箆持つことも手につかず悩み抜いたある日、「この仕事は、神様の屋根を葺く仕事。俺の一存ではうまく行かんのも当り前や!」と気付いた大吉は、まず納期の迫っている神社の関係者に、今日までの顛末を告げて納期の延長を願って承諾してもらい、今回の目的である稲荷神社に詣でて、作業の成功をお祈りして帰ったという。
 もろもろの悩みことが解決したこともあって、気分も軽く、心機一転、自身を取り戻し祈るような気持で窯に火を入れると、何ということだろう、煙の中に、スックと立上がった白狐の姿が見えたという。超現実的な現象だ。
 これは大吉だけが知る神の啓示であったのか、また彼の幻覚症状であったのかも知れない。窯出しの瓦は予想以上の仕上がりであったことを考え合わすと、お稲荷様のお加護として思えず、神のお力添えをいただいたことから、作業は波に乗り、職人たちと共に方を抱き合って歓喜したという。
 宝珠を抱いて揉み合っている雲の動きや、雲と水の文字をあしらった幹瓦の紋様、唐破風の取材の鶴を模した飾瓦などで、流石の大破風も小さく見えるほど、堂々とした降り棟が独創のデザインと相俟って、見事な曲線美を見せている。更に側面の函棟には、波頭の打返しに宝珠を浮かせ、北側には浦島の物語を心配するなど、箆一本で斯くもと思われる力作で、彼をして生涯の傑作と言わせたのも頷かれる。
 この赤焼瓦は、志摩町の文化財(建造物)に指定されている。


○画家 平賀亀祐


 志摩町片田本所平賀亀祐画伯の生誕地に顕彰碑が建てられている。
 顕彰碑には、次にように誌されている。

亀祐は父利三郎母きくの長男で明治22年9月23日志摩町片田に生る。
幼より絵を好み16才にして大志を抱きアメリカに渡り苦学多年遂にサンフランシスコ美術学校併にカリフォルニア大学美術科を卒業す 大正4年フランスに渡りアカデミーシュリアンに学ぶ 昭和9年フランスの官展であるル・サロンの銅賞同12年銀賞同廿9年最高賞である金賞とコロー賞を獲得同時にル・サロンの終身審査委員に推される。
同年フランス政府より日本人画家として初めての美術文化勲章を贈られた。又在留邦人困窮者の救済や松方コレクションの返還に尽力した功績で昭和36年我国政府より当時生存者として異例の勲3等に叙せられ瑞宝賞と紺綬褒賞を賜る。
昭和36年浜島町は名誉町民の推挙されよく37年には志摩町よりも名誉町民に推挙される。昭和40年第1回県民功労者として表彰される。昭和46年5月巴里国際美術協会副会長に推薦されたるも人気僅かにして同年11月5日巴里に於て逝去。歳83歳。没後勲3等旭日中授賞を贈らる。
                                                  高知県   伊 澤 正 三

   昭和49年9月吉祥日       建設者  柴原康雄    門下生  関川喜佐雄
   後援 神宮微古館  農業館  建設者  平賀喜八    門下生  吉川康雄


明治、大正、昭和と三世代を生き抜く刻苦勉励言語に絶する気魄で似て、異郷の地にあって初志を貫き、燦然とした偉業を成し遂げられ、世界に名を馳せた平賀画伯を改めて称えたい。
◇ル・サロン金賞を与えられた作品は、
作品名 古きパリの街角
大きさ 畳二畳敷き弱
構図 真ん中に道があり、右側が古い建物で、左も古い建物だが一階は商店。太陽光が右から射し、時刻は午後二時頃の画。
 この絵は現在、東京上野国立美術館に所蔵されている。亀祐本人が日本国へ贈呈し、その式典には皇太子夫妻(現平成天皇)が御臨席された。親戚代表として平賀達雄が出席した。


○功労者 平賀倉之助


 石碑に荘重な漢文で時の三重県知事が平賀倉之助の功績を称えている。

    碑文  三重県知事  正四位勲三等  山脇春樹篆額


(表)
 平賀君名倉之助志摩郡片田村之人性惇厚方正挙為度会県地租改正顧問又参興村務会激浪壊海岸堤塘被害甚多君請官修築害即除時地祖改正己竣一村之地級不得当君首唱更正之議而物諭紛糾不決君敢然持正抗争数年家産為蕩尽而不屈遂達初志郷人免塗炭者甚多蓋君之力也後為八雲神社祠掌説皇道導化村人風俗帰厚明治24年5月3日歿享年六十有四郷人敬意不惜終欲建碑彰其徳来請余文余深嘉其挙畧記其行実以告後人
     大正10年12月
                               三重県志摩郡長従六位勲五等  鳥山 利隆  撰
                               三重県師範学校教諭        古川平三郎 書

(裏) 大正10年12月31日之建
浦大野郷民総代建設委員長 勲八等 平 賀 忠 八

委員 平賀亀松 勲七等 竹内嘉吉 平賀甚之丈 竹内伊之助 平賀忠次郎
平賀吉助 平賀甚太郎 平賀清五郎 平賀清作 竹内友蔵
浜口清太郎 浜口由兵衛 平賀利之助 平賀久太郎 竹内喜右衛門
相談役 勲八等 平賀仙右衛門 勲七等 伊藤秀寿 平賀重之助 平賀和田八 平賀重助
勲七等 平賀甚作 平賀長七


以上の方々の篤志によって、平賀倉之助翁の徳望と其の功績は碑とともに永遠に語り継がれ、不滅の光を放ってゆくことであろう。村民の一人として惜しみなき敬慕と尊崇の念を捧げたい。


(註)碑文解説 平賀君は倉之助という名で、志摩郡片田村の人です。人情厚く品行方正で、度会県の地租改正顧問改善に挙げられていた。又、村政にも参加し激波(台風の大波)で決壊し、村民に大きな被害を与える海岸堤防の改善を当局に請願し、これを修築。災難を即取り除いた。地祖改正の時、村の土地の等級格付けが既に決まっていた。その遣り方は常識的ではないので、正しくする様にと、真っ先に立って主張提案したが、議論は紛糾して決まらなかった。平賀君は持論の正当性を信じ、数年に亘って争った。その為、家の資産は使い尽くしてしまったが、屈伏することなく、初志を達成したので、多くの村民が塗炭の苦しみの会わずに済んだ。君の尽力のお陰だ。その後「八雲神社」社掌となって村民に皇道を説いて指導し、道義と人情に厚い村作りに力を注いだ。
明治24年5月3日逝去する。享年64才。地域住民達の君への尊敬・思慕の念は深く、君の徳行を明らかにした碑を建てようと考え、来庁して私にその碑文を依頼した。私はその行為に深く感激しました。碑文は平賀君の徳行の事実を略記して後の世の人に告げます。
     大正10年12月
                                       三重県志摩郡長従六位勲五等   鳥山 利隆 撰
                                                 三重県師範学校教論         吉川平三郎 書


お稲荷さんを詠う

万廷の俳諧師・楽舟子

 楽舟子常に乗ることを楽しみおられける処、この春東部(江戸)に下るとて難風に出逢い、東の波のしづくと消えにしものを舟子共に言信を聞かず。さるによって、過ぎにし年当社稲荷社に奉納されし「連句春になって」という題に附句を附せられ、神都何某翁の口で、天地人のうちに撰せられしを、懇意の輩なつかしさのあまり、子(楽舟)の名を残したまま改めて茲に記しぬ。


 万廷元年(1860)甲冬・・・・誌してあり、片田にいたりて句を掲げて海上安全を祈願すると共に、故人を現世に導き給えかしと祈る気持をとどめている。                                     (由来記)